自己紹介

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幼年時代
店内イメージ

民謡の宝庫、出羽の国秋田に生まれ、秋田富士(鳥海山)を眺めながら、家の近くを流れる高瀬川で魚を取ったり、春から秋まで山菜を採ったりと言う日々を過ごして参りました。
少年の頃は、民謡の方が歌謡曲よりまだ少し多かった時代でした。祭りでなくても、東北民謡などが来ては我が家の茶の間っが舞台になり、外の畑が客席になったりいた事を覚えています。宿屋の無い小さな集落でしたし、先祖が芸好きだった事もあり、我が家は旅芸人の宿となることも少なくなかったようです。後世に名を残した方も多く、歌舞伎界の人や、東北民謡の人々、津軽三味線の大御所と言われた人が神社のお祭りや、地域のイベント等に来ては、よく泊まっては、夜通し芸の話だったと・・母や親戚の叔父さんから聞かされました。


村の神社(甚助様)のお祭りには、私の兄達や姉・それに村の若い衆が・・夜は芝居の稽古をしては、刀・鬘(かつら)や衣装をつけて、花道には当時にしては珍しい蓄音機から、浪曲(米若)の、天野屋利兵衛利兵衛は男でござる・・と流れ当時としては珍しい村芝居にしては、もったいない位の出来栄えであった事を今でも記憶に残っています。当時の私はと言うとトウモロコシのひげで、鬘(かつら)を作って頭に乗せて、棒切れを持って走りまわっていた。浪曲の三味線を聞いては、口三味線で・・何せ・・中学校の謝恩会で浪曲をうなったから、後のクラス会でもいつも題になっております。
若かった当時の元気さは何だったのかなア~・・。只若いだけではなかった様に思います。貧しいながらも何か夢や希望にみち溢れていたかに思えたのは私だけではなかったと思います。。子供心にも何かウキウキしている様に感じておりました。


洋楽器への興味

我が家には、三味線もあり、秋田民謡の多いなか・・県南地区にしては津軽民謡に興味を持ったのも、やはり先祖が芸好きだったからでしょう。小さい頃から、秋田民謡よりも、津軽民謡の方が多く心に残っています。最近の方々と同じで当時でも津軽三味線の音色とリズムは別物と言った感じでした。東京へ来てからは、ギター・アコーディオンを習い、弟のピアノと一緒に、ボランティアをしました。しかし、当時、歌謡曲盛りの頃で、洋楽器のボランティアは沢山いて、歌謡曲は飽きられている位でした。そこで、私たちの口から出てくるのはと言うと、弟のピアノの弾き語りで、カーメンキャバレロの世界から飛び出した様なアレンジでの『秋田荷方節』・・蝶よナ~ア~とか・・私はギターの弾き語りで『田舎なれどもサアー』と歌うと・・洋楽器で民謡を歌ったのが気に入ったのか、兄ちゃん生まれはどこかね~と尋ねられ、秋田だと答えると、私しゃ富山とか、福島だとか・・東京には東京の人しかいないと思っていたら・・考えてみると、自分も地方から来たのに・・。


太棹へのこだわり

ギターで弾く民謡も悪くはないが、やはり、心に沁み込んだ太棹の響きを忘れる事が出来ず・・それから迷わず、楽器は津軽三味線のみと心に決めて、津軽三味線の第一人奏者である、五錦竜二師の下へと通いました。仕事と稽古の行ったり来たりの日々が続く・・。

♪~津軽小原節に少年時代を過ごした故郷を描いてみました・・。

   津軽小原節(望郷編・原田)
 サーアーアー サアー サー
  出したがアー ヨイヤー
①ハアー里を離れて 幾年ぞ
  今じゃ 都の人となり
   想いつのれど ままならず
   いつか帰る日 夢に見て
②ハアー りんご畑の 番小屋で
   村の若い衆 呼び集め
   よされ、じょんがら、小原節
   歌い遊びし 日が恋しい
③ハアー月の灯りに 眠られず
   霧の山川 眼に浮かぶ
  萩 や 桔梗に 女郎花
 盆の来るたび  我を呼ぶ
   里はよいもの
    小原アー宝物